「笑い」は差別から起きる説

これはきっと人から批判されるのかもしれないんですけど、ぼくは物心ついた頃から「笑い=差別」なんじゃないのか、と思っていました。なぜそう思うようになったのかは実は自分でもよくわかってないんですけど。

でもまあ、人って「普通」とのギャップを笑うわけですよね。

で、そういう思いは常に抱きつつも、うまく言葉にできないところもあったのですが、そのあたりのモヤモヤをこの文章はうまく語ってくれているなあ、と感じました。

これは、「根源的な差別」から、「差別への嫌悪感」を排除し、「圧倒的な安心からの笑い」だけを抽出したということである。「根源的な差別」は差別の中でも最も安心を生む、いわば差別の最上級だ。故に、嫌悪感という最大の欠点があるが、生まれる安心は絶大だ。そこから嫌悪感という欠点を取り除いたため、絶大な安心、イコール絶大な笑いだけが残った、というわけである。
 
笑い飯「鳥人」、松本人志「トカゲのおっさん」は差別の笑いである - 無農薬有機お笑いブログ

いやあ、ホントそのとおりだと思います。どうしても嫌悪感がにじみ出てきてしまう笑いというのはあって、それは人にもよるし相性にもよるし雰囲気にもよるんですけど、その嫌悪感を感じ取ってしまうと格段と面白さが感じられなくなるんですよねえ。

ただ、その反面で、「笑い」の裏に潜む「差別」的な感情を自らが抱いていることに感じない、あるいは感じさせないようになりつつある今のお笑いって、ある意味、とても怖いものだなあと思った次第。

笑いについて深く考えすぎると哲学化してくるので、あまり入り込みたくないんですが、思考を巡らせるいいエントリを読んだので自分の考えをメモ程度に書き出してみました。